昭和のはじめ、今から80年以上も
前のこと、東京の下町にとびきり
モダンな一人の若者がおりました。
“あたらしもの好き”の彼は英語を学び、当時としてはとてもハイカラな英国の貿易会社の日本支社に勤務していました。ここで働くうち、最小限の在庫で、お客様の求めるものは何でも提供する商社的なビジネスに深い興味を覚えます。当時の日本の工業は町工場主体で、そのほとんどがまだ家内制手工業というものでした。そして、技術レベルでは先進欧米諸国には大きく遅れている状況でした。そんな中、彼の会社から提供したすぐれたクオリティの小さな金物の部品が、その工場の製品レベルを一気に引き上げたりすることがあることを知ることになります。それは、いままでに感じたことのない大きな満足でした。提供する製品に潜む“技術情報”を発掘していくことに仕事としての面白さを見出したのでしょう。勤めていた会社からは期待され、英国本社への転勤を勧められていたということですが、日本の発展の鍵となる技術情報を流通させたいと思った彼は一つの決断をします。「自分の会社を作ろう」と。そして、金属を扱う小さな商店を始めました。それが横田商店の前身の会社である協和商會のはじまりです。昭和のはじめの出来事でした。最初の頃は鉄を切るのも手作業。今では考えられませんが、二人掛かりでのこぎりを持ち、ギーコギーコとやっていたそうです。当時は車もありません。配達だって、重い金属の材料を担いで自転車で何往復もしていたそうです。
その協和商會に、ある日のこと、一人の若い技術者がやって来ました。車のエンジンの試作を作るための材料を売ってくれということでした。どうやら他では相手にされなかった様子。お金はなく、担保は彼のロマンでした。決して話し上手でもない若者が訥々と語る夢は「速く走る自動車のエンジンの開発」でした。当時は横丁に乗用車が入ってきただけで大騒ぎになるような時代、その若者は“世界で一番速い車のエンジンを作りたい”と思っていたわけです。その若者の心意気と夢の大きさに関心を持った“先代”は、彼に材料を売りました。“有る時払いの催促なし”という先代の粋な計らいでスタートした取引でしたが、横田商店がはじまった1935年(昭和10年)以降もその取引は順調に続きました。その若者が起こした会社は1952年小さなオートバイ“カブ”が大ヒットし、その後、若者が先代に語った“世界で一番速い車を作る”という想像をはるかに超えた“夢”は現実のものとなったのです。
さて、話は戻りますが、戦後の日本は急成長。車はもちろん、様々な分野で機械加工という技術が時代とともに発展し、その現場を支える町工場と共に横田商店も発展を遂げていったのです。横田商店では集団就職でやってきた多くの若者を雇い、家族同様に宿舎に同居していた時代もあったそうです。娯楽のなかった当時、休みの時間を利用して懸賞金付きの卓球大会や麻雀大会を開くなど、和気あいあいとした社風だったそうです。協力しあい励まし合いながら皆で会社を支え、それがすなわち地域の町工場やメーカーを支えることになり、その小さな商店はモノ作り日本 “ Made in Japan ” というブランドを築く一端を担うこととなったのです。そんな横田商店の社風はいつしか文化となり、社内はもちろん多くの顧客さまとの間に厚い絆が生まれていったのでした。
得意先の一つである大手光学レーザー機器メーカーS社が、第一次ベンチャーブームに起業する鍵となったのも、横田商店の“有る時払いの催促なし”という“意外な取引条約”が継承された結果でした。その条約は目先の利益にとらわれず、信頼という強い“人と人との繋がり”があってのみ成立するものです。そこには一会社という枠を超え、人として正しくそして幸せに生きるための哲学があります。昭和のはじめの一人のモダンで愛情豊かな若者が、仕事を通してひとつひとつ積み上げ培ってきた哲学。横田商店はじまり物語を通して先代の86年という長い人生を振り返ることで、豊かな心のありようを見つめ直す機会を得、築きあげて来た信頼の重みを改めて強く心に刻み、新しい横田商店の発展に生かしていけるよう努めて行く所存です。